過去のメッセージ要旨(Archive)

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【礼拝メッセージ要旨】

真理に従う事によって (Ⅰペテロ1:22)
1.真理に従う 
 人は主イエスに従い、真理に従う事により魂の救いを得る。私たちは真理と言われている様々な法則(物理法則等)からも当然外面的な影響を受けるが、この真理は神の真理、全ての人の生死と魂に決定的な影響を及ぼす。これは含蓄ある人生知ではなく、万物の創造主、一切の支配者の神の宣言である。
 人は必ず神のさばきを受ける事が定められている。だが主イエスを信じる者は全ての罪が赦され救われる。この福音こそ究極的な神の真理である。
 罪とは、違法や反道徳的、反倫理的であること以上に、神の真理に従わず神を信じるのを拒絶する事にある。人は神のことばに対抗して自分の感情や考えを大事にし優先する。それは、神のことばは信用せず、神を嘘つきと断定する不遜であり、これこそ罪の真髄である。アダムの堕罪の本質はここにある。
 一見立派で優しく親切でも、神を求めず神のことばに無頓着なら、アダムの罪を引き継いだ罪人である。

2.魂のきよめ 
 真理は人を自由にし新生させていく。神の真理に従うとは神を信じる事である。自分の努力や頑張りではない。救いは行いではなく信仰の結果である。私の救いに必要な全ては主が達成して下さった。それを信じる。全く自分自身にはよらない。そのことを受け入れるとき、その人の魂はきよめられ、救いを得ていく。
(礼拝メッセージより)

サムソンとデリラ (士師記16:4-31)
1.サムソンの愚かさ
 士師サムソンは凄まじい怪力の持ち主だが、わがままで異性に弱く、考えや言動が幼稚であった。サタンは人の弱点から潜入する。またサタンは狡猾である。面白半分で罪とのやり取りを繰り返すなら敗北は必至。悪の道に入り込まず、全力で回避せよ。
 第三者からは自明でも、人は渦中では自分の愚かさに気付かない。自分の思いではなく御心がなるよう、御声を聞き分ける冷静さが与えられるよう祈ろう。
 敵を甘く見、自らを過信してはならない。サムソンの力は聖霊が臨まれた故の力なのに自らの力であると誤解した。クリスチャンを覆い守り、輝かせる力は、その人の中にではなく、主が与えられる聖霊にある。聖霊に満たされ、与えられた賜物を用いていこう。

2.神のあわれみと守り 
 恵みに溺れ、神の祝福を感謝せず、それを当然視し、この世を愛して自らの力を浪費したサムソン。だから成長せず、愚かさの故に打ち倒され、人々の笑いものとなっていった。だが、彼は牢の中で、全ては神の賜物であった事を悟り、悔い改め、信仰とナジル人の自覚を回復した。
 神は彼を見捨てる事なく、何度も立ち上がらせ、聖霊の取り扱いを与えられた。主の憐れみは今も変わることはない。

3.信仰者サムソン
 サムソンはナジル人であり、信仰者であった。もしサムソンが律法に学び、祈り深くその人格が整えられていったなら、力強い指導者になったであろうに。
 表面は強そうでも内側が弱いのはサムソンに限ったことではない。私たちは学歴や地位や名誉で表面を覆い、威勢やはったりで強そうに見せるが、その覆いを取るとちっぽけな裸の自分である。
 だらしなく、愚かなことを繰り返す私たちに「義人は信仰によって生きる」という神の宣言は、闇に輝く光である。サムソンの名が聖書にあるように、信仰により、私たちの名も御国に記されている。
(礼拝メッセージより)

復活されたキリスト (エペソ1:17-23)
1.神の全能の力 
 ユダヤの指導層は、主イエスを葬れば弟子たちも自然消滅すると想定していた。しかし主の復活により弟子たちは一変した。キリストとその復活の力は世界を変え、今も主を信じる者たちを変えていく。
 神の全能の力は、主を死人の中からよみがえらせた。これは蘇生ではない。栄光の身体へと変えていったのは神の全能の力である。神の全能性は聖書で何度も啓示されている。神にとって不可能な事は一つもない。死者の復活は全能の神を抜きにしては考えられない。
 人が復活を信じることができないのは、全能の神の存在を信じないからである。主を信じる者は、神が全能であることも信じているので、主の復活も、信じる者に約束されている復活も信じる。これが二千年間継承されてきたキリスト教会の信仰である。
 復活は一瞬で起こる。神の全能の力は、死者を一瞬でよみがえらせ、一瞬で栄光の姿に変えていく。神の全能性を人間の頭で限定してはならない。私たちは瞬く間に栄光の世界へ移されていくのである。

2.復活の主 
 よみがえられた主は、今、天上で神の右に座し、全ての支配と権威の上におられる。そして私たちのためにとりなし、弁護して下さっておられる。無視され、あまり顧みられない者のとりなしと弁護ではない。全ての支配と権威の上におられる主のとりなしと弁護である。それゆえに、信じる者の救いは完全なのである。主を信じる者は、大胆に神に近づき、救いを確信する事ができる。復活の恵みを感謝しよう。  
(イースター礼拝メッセージより)

40年たったとき (使徒の働き7:30-34)
1.40年の経過 
 亡命したモーセは失意の中で羊飼いとして淡々と日を過ごす。有能な王子から完全に自分に死んだ姿へ変貌していく。神に取り扱われ、自己に拠り頼まなくなる時、神の御声を真に聞いていくようになる。そして神の御業が始まるのだ。
 神は自然や不思議な出来事や信仰者の証、聖書を通して、御使いをも用いて語っておられる。心の目を開き、心の耳を開いて聞いていこう。

2.神体験 
 それまで噂や伝承で聞いてきたアブラハム、イサク、ヤコブの神。だが今モーセは、直接その御方の御声を聞く。それが神の明確なみことばであると知った時、彼は震え上がる。
 私たちには今、聖書という形で明確な神の直接的なみことばがある。畏れつつ聞こう。神は続けて語られる。「あなたの足の靴を脱げ。」これは自分の権利を相手に渡す行為である。自分の主張をやめ、自分の出来不出来を見つめるのをやめ、神にゆだねよ。幼子のように主に信頼せよ。神はあなたの全ての苦難を見つめておられ、そこから救い出される。
(礼拝メッセージより)

第一歴代誌に見るキリスト (Ⅰ歴代誌17:1-18)
1.ダビデとソロモン 
 ダビデは連戦連勝の勝利者である。全ての敵を征服、エルサレムからエブス人を追放し王座を確立した。これはキリストの型である。キリストは万軍の主、罪と悪魔、人間の敵全てに勝利されたお方であられる。様々なエブス人(自我)を私達の心から追放し、私達の心の王座に着座していかれる。
 あなたのエブス人は追放されているか。今、主はあなたの心の王座に座しておられるだろうか。ソロモンの名の意味は平和の君である。だがソロモンの平和は長くは続かなかった。
 永久に続く王座に着き、真の神殿を建設するのは主イエスである。主を信じる各自が聖霊の住まわれる神殿であり、この世に存在する教会も神殿である。そして天の御国は完成された永遠に続く神殿である。主イエスこそは真の神殿を永遠に建てられる。

2.幕屋と神殿 
 幕屋は初臨のキリストを表わしている。幕屋はジュゴンの皮で覆われていた。ジュゴンとはアザラシのような動物である。幕屋の外見はこのように質素だが、内は黄金が張りめぐらされていた。謙卑の内に宿る神の栄光である。
 神殿は再臨のキリストを象徴している。威光の中に現れて万民が目撃していく栄光。外も栄光、内も栄光であられる。神殿の石は全て他で切り出され、形作られてエルサレムで組み立てられていった。私達は地上で取り扱われ、形作られてから天の御国へと引き上げられていくのである。

3.ダビデの祈り 
 このとき絶頂にあったダビデだが、従順に御心を受け止め感謝の祈りをささげている。神殿建設という良き動機と目的なのだからと、自分の意思を通すことがなかった。
 今日、神の明確な御心は聖書で明白である。自分の願いを訴えるのも祈りであるが、まず聖書で明確に語られている神の御心に従う力や思いを求めて祈ることである。その祈りは必ず聞かれる。
(礼拝メッセージより)