Q&A(みなさんの質問をまとめました)

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Q1 神は本当におられるのでしょうか。
Q2 キリスト教の神はどのような神ですか。
Q3 聖書とはどのような本ですか。
Q4 どの宗教を信じても同じなのではないですか。
Q5 聖書が語っている罪とは何ですか。
Q6 神を信じてどんな得があるんですか。
Q7 人間は何のために生きているのでしょうか。
Q8 人間は死んだらどうなるのでしょうか。
Q9 天国にはみんなが行けるのでしょうか。また、天国とはどんなところなのでしょうか。
Q10 永遠のいのちとは何ですか。
Q11 キリスト教と他の宗教とは何が違うのですか。
Q12 プロテスタント教会とカトリック教会はどこが違うのですか。
Q13 キリストは本当に実在した人物なのですか。
Q14 キリスト教の排他的なところがいやなのですが…。
Q15 信者ではありませんが、教会に行ってもいいのでしょうか。
Q16 教会へはどんな服装で行ったらいいのでしょうか。
Q17 小さな子どもも一緒に連れて行ってもいいでしょうか。
Q18 教会に行くのに会費のようなものがありますか。
Q19 進化論によって進化が科学的に証明されているのに、聖書の神による天地創造は矛盾するのでは・・・。
Q20 類人猿の化石が多数発見されていますが、これはサルから人間に進化したことの証拠になるのではないでしょうか。
Q21 聖書の中にある奇蹟は科学と矛盾するのでは・・・。
Q22 138億年という宇宙の年齢と、6日間で世界が完成したという聖書の記述は矛盾するのでは・・・。
Q23 最近では有神論的進化論を支持する方々がおられますが・・・。

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※何でもお気軽にお尋ねください♪

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Q1 神は本当におられるのでしょうか。

A1 八百万(やおよろず)の神はいません。そのような神は存在しませんから恐れる必要も、敬う必要もないと思います。

 しかし、この宇宙万物をお造りになられた唯一の創造者はおられます。

 聖書の冒頭に「初めに、神が天と地を創造した。」と紹介されています(創世記1:1)。この創造者が神です。

 今、自分の回りを見渡してみるとき、そこに時計、蛍光灯、机、窓、カーテン、そして目の前のパソコン等がありますが、それらは偶然に出来たものではありません。人の手によって造られた物ばかりです。パソコンは、たとえ何億年かけても、偶然には出来上がりません。英知を持った人間によって初めて出来たのであり、人間の存在を抜きにして、それが目の前にあることはありません。

 目を外に向ければ、自然界には驚くほどの秩序があります。特に大小の生物の中に見られる精巧さには目を見張ります。この精巧さ、秩序は偶然に起こり得るものでしょうか。

 この地上に、パソコンよりもはるかに精巧な生物が存在しているということは、それを生み出した、英知を持った存在がおられるということではないでしょうか。聖書はその英知と全能の力を持ったお方を「神」あるいは、「主(しゅ)」と呼んでいます。

 「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」(旧約聖書 イザヤ書40:28)

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Q2 キリスト教の神はどのような神ですか。

A2 キリスト教の神は、天地を創造された神です。神は唯一なので「キリスト教の神」という表現も適切ではないかもしれません。

 人間はこの神によって造られ、一つの惑星の表面で生きているだけの存在です。神は天地宇宙万物の創造者ですから、私たち人間が同じ目線で語ることのできるお方ではありません。まして上から目線で見ることなどできないお方です。人間は本来、目も顔も上げられないような存在、それが神です。

 天地創造の神はハイパワーや宇宙のエネルギーのような存在ではなく、意思・感情・英知を持っておられます。また、神は全てをご存知です。おできにならない事は何一つありません。空間や時間に束縛されることもありません。

 そして、正義と愛ときよさに満ち満ちておられます。神は聖であり、少しの罪もおゆるしにならず、容赦なく裁かれます。

 一方、神の愛は、ご自分のいのちを投げ出されるほど深いものです。イエス・キリストは私たち人間を愛し、その罪を赦すために人となられた神ご自身です。

 本質的には目に見えない永遠なる神が、目に見える形をとっておいでになられました。この御方が、イエス・キリストです。

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Q3 聖書とはどのような本ですか。

A3 聖書は、とても不思議な本です。

 まず第一にその古さです。
 一番古い部分は3500年~4000年前のもので、新しい部分でも1900年前です。 古典中の古典であり、古代文書です。が、博物館の片隅にほこりをかぶって保存されているのでもなく、またガラスケースの中に陳列されているだけというのでもありません。今でも現代語に訳されたものが書物として書店に整然と並べられています。聖書を手にする時、1900年~4000年前の人々が熱心に読んだものと全く同じものを同時代的に読むことになります。

 第二にその編集過程です。
 聖書は1600年~2100年もの歳月をかけて、国、身分、職業、ことばの異なる40名ほどの人によって書き記された66巻からなる編著書です。生きた時代、場所が異なるので、この40名が編集会議を開くことはできません。しかし、聖書は、何度にもわたる綿密な編集会議を開いて打ち合わせをしたかのように、主題、目的、内容、文言において完全な一致が見られ、驚くほどの統一性があります。

 第三にその正確さです。
 たとえば唯円の「歎異抄」は1262年にできましたが、最古の写本は西本願寺所蔵の蓮如(1415-99年)によるものと、次が大谷大学所蔵の1520年のものだけで、岩波文庫版はこれを使っています。原著が出てから200年~250年も後の写本一、二冊に基づいて、歎異抄はこう言っていると安心しています。
 それに比べると聖書の確かさは桁はずれです。たとえば、新約聖書の「ヨハネの福音書」は一世紀末(90年頃)に書かれたものですが、125年頃の写本が現存しています。また新約聖書の写本の数も五千を超えます。ですから、あらゆる角度から原文の復元が可能となります。
 さらには旧約聖書の予言についてですが、何百にも及ぶ数多くの予言がことごとく歴史の中で実現している点も驚がく的です。

 第四にその影響力です。
 聖書は現在2000以上の言語に訳されています。毎年の出版数は5000万冊~8000万冊です。このような本は他に類を見ません。毎年のことなのでニュースとして伝えられることはありませんが、超超ベストセラーです。
今でも、聖書によって人生が変えられていく人は後を絶ちません。

 「聖書とはどのような本ですか。」との問いに一言で答えるならば、「聖書は神のことば」です。歴史を貫いて変わることなく生き続けておられる神の人類に与えてくださった愛の手紙です。

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Q4 どの宗教を信じても同じなのではないですか。

A4 何をどのように信じるかは、とても大切です。

 人間関係でも相手が信頼できる人物かどうか、信頼できるとしてもどこまで信頼できるのかを判断していく必要があります。「どんな人間でも信じれば同じだ」とは、とても言えません。そんなことをしたら、人生がメチャクチャになってしまうのではないでしょうか。

 宗教も同じです。間違ったものを信じたら人生は間違った方向に行きます。しかも、死後の永遠の世界にもその影響が及びます。宗教は霊的な領域に関わることなので、死後の世界に及ぼす影響は避けがたいものがあります。

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Q5 聖書が語っている罪とは何ですか。

A5 人には三つの罪があります。「道徳的・倫理的罪」と、「法律的罪」、そして「心の罪」です。

 道徳的・倫理的罪は人から後ろ指を指されることがあるかもしれませんが、処罰の対象になることはありません。法律的罪は犯罪で、処罰の対象になってきます。心の罪は信仰的罪です。これは一般的には人から後ろ指を指されることも、警察が動いて処罰の対象になることもありません。

 しかし、聖書が罪の本質として語っているのは「心の罪」です。他の二つのものは「心の罪」の現われとして表面化したものです。

 心の罪とは、神の存在を認めず、神の戒めを守らない不信仰の心です。具体的には自己中心、高慢、自己卑下、偶像礼拝(人の手によって作られた石や木等でできた神仏を拝むこと)、悪い動機、うそ、憎しみ、ねたみ、しっと等です。

 一般に罪という時、人は法律的罪(犯罪)のことだけを考えがちなので誤解が生じるのかもしれません。

 人は神によって造られた存在であるにもかかわらず、その創造者である神を認めず、敬わず、従わない、これが聖書の語っている罪の本質的なものです。

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Q6 神を信じてどんな得があるんですか。

A6 「どの宗教を信じれば一番得か」という本が出ていたことがあります。人間の赤裸々な思いがストレートに表れたような題名です。

 日本人の特徴は現実的、現世的なことだと言われています。この世でのご利益に関する感性が鋭敏です。

 しかし、人が創造主である神を信じるのは、神によって造られた者としてそれが正当であり美しいことだからです。創造者を敬い、崇め、讃美することは、造られた者としての当然の姿なのです。神を信じる第一の理由はそこにあります。

 この第一の理由をないがしろにしているところに人間の罪があります。
 しかし、人が神を信じ、キリストを信じるとき、そのすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられます。そして、地上の生涯を終えたのち、神の御国(天国)に引き上げられていくことになります。これは、莫大な黒字決算を天に持っていくような人生の大勝利者としての祝福です。

 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのち(永遠のいのち)を損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイの福音書16:26)

 これはキリストのことばです。生きている間は、ただ信じるだけで無償で与えられる永遠のいのちですが、死んだ後では、何を差し出してもこれを買い戻すことはできません。

 「神を信じてどんな得があるんですか」との問ですが、これこそ、全世界を手に入れる以上の、はるかにまさる祝福です。
 現世的な面で「得」についてお答えするならば、次の聖書の約束があります。

 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6:33)

 「これらのもの」とは、食べる、飲む、着るに関することです。この約束が真実であることは多くの信仰者が経験してきたことです。

 どうぞ、お近くの教会に行かれて、この莫大な黒字決算の手続きをしてください。

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Q7 人間は何のために生きているのでしょうか。

A7 とても大切な問いかけですね。このことが分からないで過ごしている人が圧倒的に多いように思います。

 人間の生きる存在目的ですが、たとえば、私の目の前に時計がありますが、この時計は私に時刻を知らせてくれます。この目的のために時計は作られました。

 聖書は、人間は神によって造られたと語っています。神は目的をもって人間を創造されました。その目的は、創造者であられる神の栄光を現わすことです。

 「神の栄光を現わす。」この目的のために人間は生かされているのです。「神の栄光を現わす」ため、とは唐突過ぎると思われるかもしれません。しかし、先の時計にしても、それを作った人間のために時を知らせているのです。

 確かに、作られたものは、それを作ったもののために存在しているといえるのではないでしょうか。聖書は、人間は神によって造られたので創造者である神のために存在すると述べているのです。

 具体的には、神が人となられたイエス・キリストを信頼し、このお方に従い、神の義ときよさと愛を追い求めて生きていくことです。

 もし人が、この目的を無視して生きているなら、本来の創造の目的から外れていることになります。聖書はこの状態を「罪」と呼んでいます。聖書でいう「罪」は「的外れ」を意味しています。

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Q8 人間は死んだらどうなるのでしょうか。

A8 とても厳粛な質問です。

 単刀直入に答えますが、人は死んだら永遠の地獄(ゲヘナ)か永遠の天国か、そのどちらかに行くことになります。これ以外の世界は死後にはありません。

 イエス・キリストは人を罪から救うために十字架の上で身代わりとして死なれましたが、このキリストを信じて、罪の赦しを得た人は天国に招かれていきます。しかし、罪の赦しを得ていない人はみな地獄に行きます。これはその人の宗教に関係なくそうなります。聖書はそう教えています。

 人は寿命、病気、事故等で誰もが死に、その肉体は滅びていきます。しかし、その人の本質的な部分である霊(魂)は消滅することがありません。即ち、自分が自分であることを自覚する意識は存在し続けます。

 問題は、この霊が死後どこに行くことになるのかということです。この問題は極めて重大です。

 キリストが十字架で死んでいかれたその目的は、この人類の抱えている問題を解決するためです。主キリストは世界中に十字架をかかげた教会をお造りになられ、ひとりひとりを救いへと招いておられます。

 聖書は次のように語っています。

 「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(新約聖書・ヨハネの福音書3章16節)

 キリストを信じる者は確信を持って次のように言うことができます。

 「私たちの国籍は天(国)にあります。」(新約聖書・ピリピ人への手紙3章20節)

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Q9 天国にはみんなが行けるのでしょうか。また、天国とはどんなところなのでしょうか。

A9 天国とは、地上の生涯を終えた人が、復活の新しいからだが与えられて、永遠に過ごしていくことになる世界です。

 天国に行くのは、罪が赦された人だけです。そのためにキリストはおいでになられました。ですから、キリストを信じる人だけが天国に行けます。ですから教会も、キリストを信じるように、キリストを信じてくださいと伝道します。
罪についてはQ5「罪」の項を参考にしてください。

 天国の様子についてですが、新約聖書の「ヨハネの黙示録」に簡単ではありますが書かれています。そこでは、あらゆる種類の宝石で天国が描写されています。宝石で描写されているのは、天国があまりにも素晴らしく、ことばで表現することができないからだと思います。

 天国は地上での労苦がすべて報われていく世界です。このように約束されています。

 「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:3-4)

 ひとりでも多くの方が天国へ行けるようにと願っています。ぜひ教会にお越しください。

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Q10 永遠のいのちとは何ですか。

A10 永遠のいのちとは文字通り永遠に生き続けるいのちです。

 時間の経過とともに年を取り、老化し、死んでいくいのちを当たり前と思ってはいけません。人は元来死ぬことのないものとして神に造られました。老化と死があるのは、罪が入って来たからです。

 いま私たちの持っているいのちは、死によって終止符が打たれていく期間限定のいのちです。人は死を境にして永遠に続く栄光の世界と(天国)と永遠の地獄に分けられます。

 永遠のいのちとは栄光の世界で永遠に生き続けることのできるいのちです。そのいのちには復活のからだが与えられます。そのからだは栄光のからだとも呼ばれ、もはや老化や病気や死がなく、苦しみや痛みを経験することもありません。

 この永遠のいのちは、罪ゆるされた者だけに与えられます。イエス・キリストはこの永遠のいのちを与えるために来られました。

 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのち(永遠のいのち)を損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイの福音書16:26)

 「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世(人々)を愛された。それは御子(キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)

 この永遠のいのちをひとりでも多くの方に得ていただきたいと願っています。ぜひキリスト教会を訪ねてみてください。

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Q11 キリスト教と他の宗教とは何が違うのですか。

A11 キリスト教と他宗教との根本的な違いは、その伝えようとしている中心的内容が「事実」か、それとも「教え」か、という点にあります。

 キリストの弟子たちが命をかけて伝えたのは、「キリストは私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」(Ⅰコリント15章3-4節)でした。
 すなわち、「死なれた」、「葬られた」、「よみがえられた」というキリストの「事実」です。
 キリストの弟子たちは、今日でいう新聞記者やジャーナリストのようにしてキリストの「十字架」と「復活」の事実とその意味を伝えたのです。

 このキリストの「事実」という歴史的な信憑性こそキリスト教の根幹です。

 キリストの「教え」は、この歴史的な事実がもとにあるので信頼に足りることばとなります。すなわち、過去をゆだね、現在と将来を託すことができるのです。事実という根拠のない単なる「教え」は、気のきいた慰めにはなるかもしれませんが、その教えに人生と死後の永遠をゆだねることはできないように思います。

 他宗教は、教祖の思想や悟りやお告げといった「教え」が中心のように思います。

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Q12 プロテスタント教会とカトリック教会はどこが違うのですか。

A12 プロテスタント教会とカトリック教会は、教会がよりどころとする「神の権威」に違いがあります。

 プロテスタント教会は16世紀の宗教改革から始まっていきました。プロテスタント教会は、神の権威を「聖書」に置いています。ですから教会は、聖書のことばを神のことばと信じて、これを学び、これに従います。聖書だけがプロテスタント教会が認める唯一の権威です。これは、三世紀までのキリスト教会の基本的な姿でもありました。

 カトリック教会は、神の権威を「カトリック教会(教皇)」に置いています。ですから、カトリック教会のトップメンバーが取り決めた事柄には権威があることになり、教皇の決定事項が聖書と同等の権威あるものとして付け加えられていきます。マリヤには罪がなかった、マリヤは死を経験せず昇天した、という教えも聖書にはないもので、後から付け加えられたものです。あの悪名高い宗教裁判所(異端狩りや魔女狩り)や有名な免罪符もそうです。その他にも分厚い本になるくらいたくさんのものがあります。

 キリスト教会は初めからカトリック教会的な姿だったのではありません。ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教に回心して、キリスト教が公認されていった後(313年)、ローマ帝国の政治スタイルが教会の中に入ってきました。教会の姿が大きく変化していったのはこの辺りからです。教会の中に政治的な力が入り込み、教会は巨大な世俗の権力を持ち始めるようになりました。これを背景に、一司教(監督)にすぎなかったローマ司教が自分の優位性と絶対性を主張し始め、教皇を名乗ります。これがローマカトリック教会の起こりです。

 16世紀初頭に起こった宗教改革の運動は、原点に帰ろうという運動です。キリストの弟子たちの時代の教会の姿を取り戻していこうという運動です。プロテスタント教会はいつもここに立ち続けようとしています。

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Q13 キリストは本当に実在した人物なのですか。

A13 イエス・キリストは実在の人物です。

 キリスト以後の世界は、キリストの影響が現代にいたるまで様々な領域に及んでいます。これは音楽、絵画、文学といった芸術の分野は言うまでもなく、科学、医療、福祉、政治、経済と、あらゆる方面です。これを否定する人はいないでしょう。架空の人物からこのような影響と変化は生まれ得ません。

 キリスト(救い主)と呼ばれたイエスが実在していたか否かについて、学術的研究者の間でこれを否定する人はいません。イエス実在に関する数多くの証拠を前にして、彼らの間ではもはや疑いの対象ですらありません。

 もし、イエスの実在を疑うなら、教科書で習うような多くの歴史上の人物はその実在を間違いなく疑われることになります。それくらい、イエス・キリストの実在を確証させる資料は豊富です。

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Q14 キリスト教の排他的なところがいやなのですが…。

A14 聖書は、ただ一人の主(しゅ)と呼ばれる神と、ただ一人の救い主がおられるだけで、他の神々や他の救いがないことを明言しています。ですから、このことに関しては、おっしゃる通りに排他的です。しかし、他のことに関しては非常に寛容で、配慮と愛に富んでいます。

 排他的なことに関してですが、これは真理の持っている一側面です。キリスト教は頭の中で作り上げた個人の思想や悟りを宗教として教えているのではなく、真理を扱っているのでこの側面があります。

 たとえば、世には物理法則等たくさんの法則がありますが、これらが真理であるなら、法則として導き出された数式以外のものは真理ではありません。単純なもので見ると、1+1=2が真理であるなら、2以外の答えは間違っています。答えとして2しか認めないなんて排他的だから他の答えも認めよ、とはなりません。もし認めたら、それはもはや数学ではありません。単なるでたらめであり、ゲームであり、遊びにしかすぎません。

 一神教は排他的でいやだ、多神教は寛容でいいと考えておられる方が比較的多いのですが、寛容さを尊ぶこの意見の中に、すでに寛容でない排他的なものがあるのをご存知でしょうか。一神教は排他的なのでいやだという排他的考えからでてきた意見だと思いませんか。

 また、多神教であるならば寛容であるはずの日本が、かつての戦争で何をしたかご存知でしょうか。中国や韓国等の至る所に神社を建立し、拝礼を強制(抵抗した人を投獄、殺害)していきました。多神教が寛容だというのは、ことばの誤魔化しか、単なる思い込みのように思います。

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Q15 信者ではありませんが、教会に行ってもいいのでしょうか。

A15 教会はどなたが来ていただいてもいいところです。各種の集会には自由に来ていただいて結構ですし、相談室も設けていますので、お気軽にご連絡ください。

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Q16 教会へはどんな服装で行ったらいいのでしょうか。

A16 特に決まりはありません。平服でおいでいただいて結構です。

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Q17 小さな子どもも一緒に連れて行ってもいいでしょうか。

A17 子どもさんがおられるならご一緒にご出席ください。大歓迎です。

 母子室もありますので、そちらを利用することもできます。母子室には絵本が多数取り揃えてあります。また、礼拝で語られる話も聞くことができるようになっています。

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Q18 教会に行くのに会費のようなものがありますか。

A18 会費のようなものはありません。

 礼拝の中で献金がありますが、信者が自由にささげているものです。信者であってもなくても強制されることはありません。

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Q19 進化論によって進化が科学的に証明されているのに、聖書の神による天地創造は矛盾するのでは…。

A19 進化論は160年ほど前にチャールズ・ダーウィンによって提唱されたものです。これについては、今現在も様々な方面から実証が試みられていますが、未だに一つの論であって仮説です。

 進化論は「科学」と言われますが、「歴史科学」に分類されるものです。これは、現在入手可能な事物を観察して過去に起こったことを推測する学問です。探偵物語のようだと言ったら分かりやすいでしょうか。即ち、現在入手できる事物(状況証拠)から犯人(過去に何が起こって今の自然界があるのか)を割り出していく学問です。ただ科学というのは神や超自然というものを想定しません。ですから、神や超自然を抜きに犯人を割り出していかなければなりません。そのような中で、真犯人としてあげられているのが進化です。
 このように進化論とは推論による仮説であり、実証された科学ではありません。この区別はしておいた方がいいと思います。

 今の自然界の成り立ちをどう説明したらいいのか・・・。神を持ち出さなくても、その説明ができるということで、多くの無神論の方々がこの推論に飛びつきました。
 また、現在でも科学論文が科学的であるためには、神の存在を前提にはできないので、どうしても進化を前提に論を進めざるを得ないという事情も事実としてあるようです。
 進化論は現在でも百家争鳴の仮説ですが、科学的説明としてはこれ以外のものを挙げることができません。ですから無神論で科学を信奉する方々にとっては、これのみが唯一の説明です。そのため、憶測や推定ですが、これを真犯人と信じて疑わないところがあります。

 それでは実証可能な科学の視点では、進化論をどう見たらいいのでしょうか。それには、進化論の根幹をなす次の二つのことを検証する必要があります。一つは生命が自然発生するか否かであり、二つ目は自然発生した生命がそれぞれの分類を越えて変移(大進化)していくか否かです。

 実証可能な科学の視点で見るならば、次のことが言えます。
 まず自然発生についてです。ダーウィンが「種の起源」を出版したすぐ後に、パスツールは、生命が自然発生しないことを有名な実験(白鳥の首フラスコ実験)によって実証しました。これはとても単純な実験ですが、非常に論理的な実験方法です。このように、実証科学が生命の自然発生を否定しました。これが科学です。
 進化論はこの事実について反論していないように思います。(生命は宇宙から来たという愚にもつかない説明は、生命が自然発生しないことを認めたことになるでしょう。)

 次に生物種の変移(大進化)です。これについては、生物が生後に得る獲得形質は遺伝しないこと、交配による変化(品種改良または小進化)は種を越える変化(大進化)にならないこと、異種間の生物の交配も不稔性が生じ新しい種にはならないこと、これらのことが実証されています。要するに、それぞれの生物の分類は固定されていて、その分類を越えて変移させて行くことができません。これらのことが実験によって実証されている科学です。
 進化論が進化の証拠として挙げるのは小進化(品種改良)の類ばかりです。小進化の積み重ねが大進化になるとの説明ですが、説明のみでその証拠はありません。

 上記のみならず、科学の諸事実は進化論を否定しています。これは、物理学、生物学、化学、生化学、考古学をはじめ統計学においてそうです。そして、これらは基本的、根本的な科学です。(上の太字部分に興味のある方はさらにこの文の下に説明があります。)
 この基本的、根本的な科学を覆(くつがえ)すことをせずに、状況証拠の類だけで進化を真犯人と決めてしまうのはいかがなものでしょうか。

 このように、科学が実証していることは、進化が起こり得ないことであり、起こり得ることではありません。進化論は、ダーウィンの時代から現代にいたるまで、見た目に似たものを並べて進化を説明しようとします。しかし、その似たものの間で進化が起こっているのは学者の頭の中だけのようです。
 ですから進化論は、社会通念では科学的事実のように言われていますが(特に日本では)、前述したように歴史科学に属するものであって憶測や推測です。
 実証された科学は科学として尊重されなければなりませんが、実のところ、進化論はその科学ではありません。

 ということで、進化論は一つの世界観ではあるかもしれませんが、これをすでに実証された科学的事実のように思うのは大きな誤解です。

 命の存在は奇蹟です。決して偶然ではありません。ですから私たちは日々、神の奇蹟を見ていることになります。

( 物理学、生物学、化学、生化学、統計学、考古学からみた進化論 )

【生命の自然発生の不可能性について】
・物理学  物理学の中に、有名な熱力学の第二法則(エントロピーの法則)がある。これは「エントロピーは絶えず増大する」というものであり、一言で言えば、「覆水盆に返らず」ということわざに象徴される。即ち、自然界においては、秩序あるものは、より無秩序になる方向にしか進んでいかない。逆の方向には決してならない。

 例えば、自転車を外に放置しておくと、段々とさびが進み、しまいにはくず鉄となる。逆のケースにはならない。即ち、くず鉄を放置しておくと、徐々に自転車の形が出来上がり、ぴかぴかの状態になっていく。更に放置しておくと、益々機能が充実していきオートバイとなる。このようなことは決して起こらない。
 当たり前のことであるが、宇宙にはこの法則が厳然と支配している。しかも、この「熱力学の法則」は現代物理学が唯一の真理と認めるものであり、これ以外の法則は、ニュートンの「運動の法則」にしても、アインシュタインの「相対性理論」にしても、すべて「暫定真理」──つまり仮説とされているほどである。

 であるから、進化論が言う、分子からアミノ酸、アミノ酸からポリペプチド、ポリペプチドからたんぱく質、そしてついには原始細胞の発生という、エントロピーの法則とは全く正反対の出来事は起こり得ないのである。

・分子生物学  分子生物学の領域ではDNAの解析が進み、DNAのレベルで進化論を説明する向きがある。しかし分子レベルの話になっただけで、状況は何も変わっていない。

 DNAは生物の設計図とも言うべきものであるが、設計図を解析できたことと、進化を実証することとは全く別問題である。

 例えば、一つの荘厳な建築物があり、その設計図が見つかったとする。それによってその建築物の構造が分かり、使用している材料も分かる。しかし、構造が分かり、使われている材料がそこにあったとしても、自分勝手にそれらの材料が所定の位置に組み立てられていくことはない。設計図の解析は、設計図通りの建物が偶然に出来上がることを何も説明しない。そもそも設計図そのものが偶然に出来上がることはない。

 要するに、設計図があり、アミノ酸という基本物質がどんなにあったとしても、偶然に生命が生まれることはない。

・化学  化学の分野では、ミラーとユーレイによるアミノ酸合成実験について考えたい。

 1950年、二人の科学者はメタン、アンモニア、水素からなる混合気体、いわゆる原始のスープに、雷を模した電気放電を当て、アミノ酸などの有機物を合成した。当時、無機物から生物を創ったとして、この実験は鳴り物入りで世界中に報道された。

 しかし、この実験でセットされた「原始のスープ」状態が、果たして実際に生命発生当時の地球の状態と同じなのかどうか、知るすべが全くない。

 また、アミノ酸は酸素に触れると分解してしまうので、酸素のない状態で発生したと想定するが、酸素がないと大気にオゾン層が形成されず、地上に紫外線が直接降り注ぐことになる。ところが、この紫外線もアミノ酸を分解してしまう。要するに、酸素があったとしてもアミノ酸は破壊され、酸素がなかったとしてもやはりアミノ酸は存在できないのである。

 それで今度は、生物は水中で進化したという説が生まれた。が、雷は海の中にはほとんど届かない。しかも、アミノ酸からポリペプチドへの合成は水中では不可能で、当然ながら生命のもととなるたんぱく質の形成は起こり得ない。

 要するに二人の実験は、人為的に条件を設定した上でのアミノ酸の合成で、生命の合成とは全く関係がない。単なるアミノ酸から生命の発生までには、気の遠くなるような隔たりがあり、越えることのできない壁がある。単なるアミノ酸のスープからは生命どころかたんぱく質の一つすらできない。

・生化学  アミノ酸は、同じ分子式を持ちながらも、光学的に見て左旋性のものと右旋性のものとがある。このうち、生命の発生はアミノ酸が左旋性の場合にのみ可能なのであり、少しでも右旋性アミノ酸が混じりこめば生命は存在し得ない。即ち、新陳代謝の出来ない異構造のたんぱく質となる。

 左旋性アミノ酸と右旋性アミノ酸の混合したものをラセミ体というが、上記「化学」の項で述べたアミノ酸合成実験で得られるものは、いつもラセミ体なのである。

・統計学  進化の起こる確率はどの程度なのだろうか──偶然だけで、動植物界を形成している非常に複雑で秩序正しく、しかも正確な機能を持った生物が誕生するものであろうか──エントロピーの法則をはじめとした上記項目によって、偶然による原始細胞の発生(生命の誕生)はあり得ないが、統計学的にはどういう可能性なのだろうか。

 生きた細胞は、それがたとえ単細胞であったとしても、驚くほど複雑なメカニズムを持っている。その中には何千もの組織があり、無数の種々の化学物質で整然とコントロールされ、全体が秩序正しく機能している。例えば、単細胞のバクテリアである大腸菌には、百科事典一億ページ分に等しい情報が入っていると言われる。

 統計学上では、確率の幅が「10の30乗分の1」ないしは「10の50乗分の1」の場合は、確率ゼロとみなされる。これを尺度として、単細胞生物が自然発生する確率を計算してみると、(ある統計学者の計算だが)単なる偶然からこれが起こるチャンスは「10の78436乗分の1」である。であるから、偶発的に単細胞生物が生まれる確率は、このような表現が許されるとするならば「ゼロ以下」ということになる。

 それでも、地球の年齢と言われる50億年という長い時間の中では起こり得るのではないかと、わらをもすがる思いで言われる向きがある。が、地球の年齢はおろか、宇宙の年齢と言われる百数十億年をもってしても、上記の確率を満たす期間としては短すぎて全くお話にならない。否、短すぎるという時間の問題ではない。上述したように確率は「ゼロ以下」なのである。

 以上、パスツールは、生命が自然発生しないことを実験によって実証したが、上述の科学的諸事実と統計学はそれを完全に裏付けている。


【生物進化の不可能性について】

 パスツールの実験と共に上述の科学的諸事実が生命の自然発生を否定しているので、そのあとの出来事となる生物進化は起こり得るはずがない。スタートができないのに、そのあとの経過(生物進化)を論じることは無意味と言える。

 それでも、あえて、そのあとの経過(生物進化)についても触れてみたい。

・生物学  進化が実際に起こったのであれば、一つの種(しゅ)から別の種に変化していかなければならない。すなわち生物はその分類を超えて変移していく。生物進化はその事を大前提とする。
 最近の進化論では、種と種の間には移行不可能な壁のようなものはなく、両種の間はなだらかに連続していると考えている。それで、種の中に起きる小さな変化(品種改良・小進化)が積もり積もっていくとき、ついには別の種(大進化)に移行しうると説明する。

 一見もっともな説明である。確かに、長時間かけて改良していけば、犬の場合だと、大きな犬や小さい犬、太った犬にやせた犬、尻尾の長い犬や短い犬をつくることはできる。しかし問題はその先である。どこまで行っても、いつまで行っても、犬は犬のままなのである。これを猫に移行させていくことも、ウサギに移行させていくこともできない。即ち、小さい変化を積もり積もらせても、犬という種を越えて別の分類(種・属・科・・・)に移行させていくことはできない。

 進化論は、進化の起こった可能性を色々と説明はするが、それを科学的に実証することができない。このように、進化論の説明は「絵に描いた餅」である。この「絵に描いた餅」的説明のみが世に出回っている感がある。

 近年言われている進化の証拠は耐性菌である。抗生物質等の投与によって病原微生物は耐性を得ていくが、「耐性を得た微生物になった」ということを進化の証拠とする。しかし、これはもともと耐性を持っていた菌が生き残り、それが繁殖していったためであり、耐性を得たように見えるのも、上述したように品種改良の類である。この微生物が別種の微生物に変わることはない。
(近年になっても、このような例を進化の証拠として持ち出すところに進化論の限界があるのを知らなければならない。)

・考古学  例えば、魚から両生類への変化を考える時、これの漸進的進化に要する時間は数百万年であろうと目される。その間に膨大な数の中間種が発生して魚を両生類へつなぐことになる。

 ところが、そのような中間種の化石は、現在まで何処からも発見されていない。

 もう一つは、生物の教科書に載っている馬の化石の進化図である。これこそ、進化論を証明するものであると多くの人たちが思ってきた。馬の進化していった様子が鮮やかだと。

 しかし実は、これは、別々の時に、別々の所で集めた馬の化石を、単に大きさの順に並べただけのものである。

 一般に、古い地層であればある程、より下等で単純な生物の化石があると思われているが、実際は、より古い地層に、より複雑で高等な生物の化石が見つかることも珍しくない。
 聖書はこのように語っています。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」   (旧約聖書 イザヤ書40:28)

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Q20 類人猿の化石が多数発見されていますが、これはサルから人間に進化したのことの証拠になるのではないでしょうか。

A20 人間の祖先とされた様々な化石が再検証されました。結果は次の通りです。

 ルーシーと呼ばれているアウストラロピテクスは、サルの骨40パーセントを使ってあたかも立って歩いていたかのように作られたものでした。

 ネブラスカ人は豚の一本の歯からその家族までもが作られたものでした。

 ピルトダウン人は、人間の頭蓋骨にサルのあごの骨を組み合わせて計画的に加工したものでした。

 ネアンデルタール人は、関節炎かくる病を患っていた普通の人間でした。

 また、ラマピテクス、ジャイギャントピテクス、ジンジャントロプスは完全にサルであり、ハイデルベルク人、クロマニョン人は完全に人間でした。

 以上、類人猿とされていたものは、いずれも誤認か捏造だったのです。

 進化論には上記のような検証結果をはじめ、Q19の回答で述べたような不可能性が何重にもわたって取り巻いています。
 このような報告はあまり公にされないので、進化論の抱えている根本的問題に気付かずにおられる方が多いように思います。

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Q21 聖書の中にある奇蹟は科学と矛盾するのでは・・・

A21 聖書の中には、奇蹟と言われる出来事が数多く記されています。
 その代表的なものの一つに処女マリヤによるキリスト誕生があります。これは長い間、非科学的なこととしてひどく攻撃されてきたものです。

 21世紀を迎えた今日、科学はクローンやiPS細胞の時代に入りました。一つの細胞から一個体をつくり出すことができる時代になったのです。

 処女マリヤから、男性が介入することなく一人の人間(キリスト)が生まれたという聖書の記録ですが、クローンの時代を迎えた今日では、それを非科学的なことだと言って笑うことはできなくなったのではないでしょうか(だからといって、キリストがクローン人間だったとは考えてはいませんが)。

 科学はさらなる科学の進歩によって変わっていくものであり、絶対的なものではありません。現代の科学が聖書の記録を説明できないからといって、即、聖書の記述はおかしいと結論づけることはできないように思います。

 聖書が紹介する神は宇宙万物をお造りになられた創造者ですから、ご自身が制定された自然法則(科学)をご自身が一時解いていかれることに何の矛盾もありません。むしろ、この天地万物をお造りになられた神が奇蹟と思われることができないとするなら、それこそ大きな矛盾ではないでしょうか。

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Q22 138億年という宇宙の年齢と、6日間で世界が完成したという聖書の記述は矛盾するのでは・・・

A22 この誤解は、科学の限界と、聖書が述べている神の全能を区別できていないところから来ます。

 聖書は、「初めに、神が天と地を創造した」と述べています(創世記1:1)。
 ですから、この大宇宙と自然界の一切のものは、科学の諸法則も含め、神の創造の結果としてできたものです。誤解してはならないのは、科学の諸法則は、神の創造の結果として定められたものであって、神が科学法則を用いてこの世界を造られたのではない、ということです。科学の諸法則を用いて何かを作り出すのは人間のすることであって、神はそうではありません。

 問題になっている138億年という宇宙の年齢ですが、この数字は現在観測されている宇宙の膨張スピードから割り出したものです。ですから、宇宙の年齢が138億年だというのは、「科学的に計算するとそうですね」ということです。科学は神の存在を想定しないので、これ以外のことは言えません。しかし、「だから、神が6日間で世界を創造したというのは間違っている」となると、主客をそこで転倒させてしまうことになります。

 聖書の語る神は「全能」の神です。聖書に記されている様々な奇蹟も科学では説明できません。神は、この世界を動かす仕組みとして科学法則を定められたのであって、神ご自身はこの法則の外におられて(法則に縛られることなく)世界を創造され、また奇蹟を行なっていかれます。
 ですから、科学をもって神や聖書を批判することは的外れになります。

天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子(キリスト)によって造られ、御子のために造られたのです。」(新約聖書 コロサイ人への手紙1:16)

神にとって不可能なことは一つもありません。」(新約聖書 ルカの福音書1:37)

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Q23 最近では有神論的進化論を支持する方々がおられますが・・・

A23 神は全能なので、偶然(物理法則と化学法則だけ)では決して起こり得ない生命の発生や、生物種の移行も可能です。神にとって不可能なことは一つもありません。
 ただ、進化は、何万年や何十万年の間の莫大な数の生物の死を経て起こるものです。そうなると有神論的進化とは、莫大な数の死をもとにして神はこの生物界を造られたことになります。ということは、死は神によって設定されたものになります。
 しかし、聖書によると、死は人間の罪によってもたらされた呪われたものですから、ここに大きな矛盾が生じてきます。
 罪の問題、死の問題は、聖書の根幹となる問題です。このように有神論的進化論は、進化論との折衷案として表面的なつじつま合わせにはなりますが、逆に、神学の根本にかかわる重要な問題が出てきます。有神論的進化論はこの問題を抱えます。